消えたニジニ・ノヴゴロド
今日のロシアは民主主義国家だ。少なくとも名目上は。しかし、古い慣習はなかなか捨てられず、全体主義だった過去の影響もまだ色濃く残されている。
例えば、ロシア全土に点在する閉鎖都市。40以上あることは確認されているが、実際はもっと多いかもしれない。都市が閉鎖されるようになったのは1940年代後半からで、偏執症的な政治を執るようになっていたヨシフ・スターリンの命令によるものだった。また戦後も宇宙開発や核開発が各地で行われていたため、鉄のカーテンの裏側すべてが秘密のようなものだった。
閉鎖された都市は地図からも抹消された。ロシア北極圏の辺境の地にあり、悪名高きグラグ(強制労働収容所)の囚人たちに強制労働させることで作られた都市、ヴォルクタなどは歴史が浅く、存在しなかったことにするのはそう難しくはなかった。
しかし昔から国の中心にあり、戦略的軍事施設を抱えるニジニ・ノヴゴロドのような都市は、たとえその名称を変えても、人々の記憶から消すのは難しかった。ちなみに、新しい都市名はゴーリキー。ニジニ・ノヴゴロドで生まれた文学者の名前だ。
ソビエト時代は、外国人はもちろん、ロシア人でさえ、正当な理由がなければこの歴史ある街に立ち入ることが許されていなかった。そして人口100万人を超す大都市だったにもかかわらず、1970年代に入るまで、住民であっても市街地図を手に入れることができなかった。
世界で一番汚染された街
オジョルスクはウラル山脈の南、ニジニ・ノヴゴロドからは東に1200キロの位置にある。ここもグラグの収容者たちによって一から作られた街で、当時はチェリャビンスク40(のちにチェリャビンスク65)と呼ばれていた。このように閉鎖都市の名称は、近隣の大都市の名称に番号をつけるのが一般的だった。
1945年辺りから始まり、7万人もの囚人が、原子炉や地下研究施設などを建てるため強制労働に充てられた。マヤーク・コンビナートと呼ばれるこれらの施設で、労働者は「5年生存率が0%」という恐ろしいレベルの放射線を浴びていた。その頃、特にソ連のような国では、被爆の影響やそれを防ぐための安全対策について理解している者は少なかった。