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矢田喜美雄氏(朝日新聞)

『謀殺 下山事件』などで下山事件他殺説を強く主張した矢田喜美雄氏は、1913年(大正2年)山梨県八代群に、県では有名な教育者の父親(一法)の三男として生まれました。矢田氏は小さい頃から運動が得意だったようで、早稲田大学高等師範学校時代にはベルリンオリンピックに走り高跳びの選手として出場し、見事5位入賞を果たしています。写真を見ても痩身でスラリと背が高く(182センチ)、スポーツマンらしい容姿で、実際女性には相当モテたようです。高等師範を卒業後も大学に残って競技を続けたかったらしく、同大学文学部史学科に進みましたが、当時は師範学校出は小学校の教師になる義務があったため、大学に在籍しながら山梨県の小学校で教師として働きました。教育理念は京都大学の木村素衛教授に指導を受け、画一的な没個性教育を否定した型破りな指導を実践しました。この頃の矢田氏は、藤沢桓夫の小説『新雪』の主人公のモデルにもなっています。教え子の親を殴ったりするなど、同僚教師や校長からは決して良い評価を受けていたわけではありませんが、子供たちには大変人気があり、彼らはその後「矢田会」という同窓会を作っているほどです。軍歴は記録がはっきりしませんが、1938年(昭和13年)に軍隊に入っているようです。その後大阪の済美小学校を経て、1942年(昭和17年)に朝日新聞社に入社しています。

朝日新聞入社後は、下山事件を別にすると、南極観測を実現させたのがやはり最も大きな仕事でしょう。矢田氏は朝日新聞社や東大の学者に働きかけ、当初は実現困難と思われた南極学術探検の案をその類稀なる発想と行動力で現実のものとしていきます。ただ、矢田氏は極めて魅力的な人物である反面、「はったりが強く」、「クセのある、自己主張の強い人物」で、思い込んだら誰も止められない「暴れ馬」であり、それが災いして学者との間に大きな溝を作ってしまい、南極観測プロジェクト自体は実現したものの、結局夢見ていた自身の南極行きは頓挫してしまいます。南極観測やミロのヴィーナス展など多くの企画に携わった矢田氏は、自他共に認める「朝日新聞に一番、金を使わせた男」として社内に知られていました。何かを思いつき、実行に移す際には周りを巻き込むパワーを持っており、いつも気が付くとその場の主になっているような人物だったようです。朝日新聞の上司や同僚は氏をコントロールするのに大変な苦労をしたようですが、しかし、南極観測のような大プロジェクトは、彼のような人物がいなければ決して成功しなかったのは確かでしょう。

結婚は同じ朝日新聞社で年上の女性記者としています。最初は色よい返事をもらえなかったようですが、ラブレターを何通も書くなど猛アタックの末めでたくゲット、その後は夫婦で精力的に朝日新聞の労組で活躍したといいます(矢田氏は労組委員長を務めた)。夫婦仲は良く、矢田氏は奥さんに手編みのマフラーをプレゼントするなど、思いやりのある旦那さんでした。

上記の事柄以外にも、絵を描いて美術展に入選したり、『謀殺 下山事件』の演劇の脚本を書くなど、多くの才能と引き出し、そして手に負えないほどの(?)パワーに溢れた人物だったといえそうです。朝日新聞退社後は東京の明治通り沿いのボウリング場の経営に携わるよう誘われ、4年間そこで常務として勤務しています。苛烈に生きた矢田氏ですが、『謀殺 下山事件』の出版記念会の後には体調を崩しがちになり、奥さんの後を追うようにして1990年にお亡くなりになっています。

矢田喜美雄氏
矢田喜美雄氏。朝日新聞夕刊2008年5月15日付より。

矢田喜美雄氏
矢田喜美雄氏。『翔んだ男 矢田喜美雄 ―異色社会部記者の軌跡―』より。

参考文献

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